6/9 イザヤ書6章1-13節 「預言者としての招き」

 紀元前742年、預言者イザヤの召命(主の働きに呼ばれること)。「セラフィム」は天使のような存在。ただ聖書で常に大事なのは「姿」より「言葉」。イザヤは神の言葉を民に語るには自分は罪深く、弱い存在という認識があります。しかし、火(ここでは神の赦し、熱意、臨在の印)が唇に触れたことによって神の呼びかけに応えて生きる決意が与えられたのです。9~10節は解釈が困難な箇所のひとつ。「逆説的な頑迷預言」と言われ、なぜ、「いやされることがないように」語るのかと思うでしょう。本来は「いやされるため」だったけど、結果的に人々が悔改めなかった歴史の反映、あるいは伝承の過程での誤記。でも神の心は救いに向けられているのは間違いありません。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 日本バプテスト連盟 清水栄光キリスト教会。静岡市清水区矢坂西町15-5にあります。住宅地の中にある教会です。この教会のホームページをのぞいてみると、駿府の切支丹のことがしるされており、以下の文章を石渡牧師が記しておりました。「牧ヶ谷の耕雲寺。静岡の街中から離れた、静かな山間にあるお寺だ。かつて、家康の家臣だった原主水(はら・もんど)は、キリシタンであることをやめなかった為、両手足の指と、足の節を切られた上、額に十字架の烙印を押されて、安倍川の川べりに捨て置かれた。そんな主水を助けて介抱したのが、耕雲寺の住職である。耕雲寺の僧侶たちによって命長らえた原主水は、不自由な体のまま江戸に出て布教し、捕えられて処刑される。耕雲寺は、悪しきキリシタンを匿った罪のゆえに廃寺。住職もまた処刑された。」。様々な思いをもってこの文書を読みました。祈りの課題は以下です。①教会員の互いの賜物を見出し、賜物を生かす教会。②教会が出会いと交わりの場として祝福されるように。③教会会計の祝福。牧師・石渡 修司

2022年06月08日