5/28「聖霊の力 1」Ⅰコリント2章6-18節②
人間に真の「知恵」があったならイエス・キリストを十字架につけなかった。愚かな人間の知恵は人を殺して自分が生きようとした、自分が生きるために人(ここではキリストのことですが)を殺す、それは決して「殺人事件」に至らずとも、人間は心の中で人を殺していることがどれほどあるでしょう。でも、自分が邪魔だ、うるさい、目障り…そのようにして心の中で殺しても、その人自身がそれで幸せになるかといえば決してそうではありません。主イエスを殺すこともそうでありました。また、私どももイエス・キリストを心の中で殺しているのかもしれません。
9節の括弧内の言葉、それはイザヤ書52章15節、64章3節、65章17節の言葉をパウロなりに表現した言葉です。何度も言うように、パウロは旧約聖書七十人訳を持ち歩いていたわけではありません。記憶を頼りに語っているのです。しかし、パウロの中には確固として、旧約の預言が現実にイエス・キリストとしてあらわされたとの思いがありますし、それは私自身も同感いたします。
十字架上で人間に殺される神!それは人間の思いを遥かに超えたものでした。人間がつくる神ならば、決してそのような神にはしないでしょう。なお、この括弧内の引用について、青野先生は「イザヤ52章15節、64章3節などの反映があると思われるが、グノーシス主義者たちが用いていた二世紀のトマス福音書の語録17に類似の文言があるために、パウロの論敵たちが用いていた文書からの引用の可能性もあろう」としております。私としては時間の違いもあり、むしろパウロの言葉が逆い意味を違えて用いられたと感じます。ちなみに田川先生はと思って調べると、おう、私と同じような見解でした(ただし、田川先生は様々な書物を実際に調べているので、私の水準とは異なりますが)。
先にもう一箇所出てくる16節の括弧の言葉。青野先生の訳では「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」。この言葉はイザヤ書40章13節(七十人訳)の引用です。人間は教えられなくても神の霊のみが伝えるという内容です。
今日はさらにもう一点を途中まで扱いましょう。14節の「自然の人」、田川先生の説明を借りれば、「直訳は単に『生命的な人』。つまり「生まれながらの人」(口語訳)、新共同訳の『自然の人』も良い訳。パウロの人間論は、おおざっぱに言えば三種類あって、肉的な人、自然的生命の人、霊的な人である。『肉的な人』は、パウロにとっては否定的な、良くないあり方をしている人間、『肉』という原理によって支配されている人間である。その反対が『霊的な人』。それに対し『自然的生命の人』は、どちらかというと中立的であって、単に生まれてそのままの、自然的生命を生きているだけの人間。」としております。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 連盟「回転資金委員会」。連盟の回転資金は教会の土地取得や会堂建築等の際して低利で貸し付けるものです。教会や寺社、学校等は銀行からお金を借りるのが大変難しいのです。土地等が駅近くの一等地にあっても、担保にならない。以前、理由として聞いたのは教会やお寺等が支払い出来なくなった時には土地等を取り上げると、世間から銀行が文句言われるとのことでしたが、どうなんでしょうか?そのようなこともあり、連盟内部で資金を持ち、貸付を行う制度があることは大変評価すべきことで、日本バプテスト連盟のすばらしい点のひとつです。他にも、連盟は神学生への奨学金が充実している点、みんなが心合わせて運営をになっていること、みんながとてもこのつながりを愛し、大事にしていることは、いつも嬉しく感じています。さて、この委員会の祈りの課題は、①必要を満たせる資金であるように。②老朽化の備えの一助となりますように。③教会等の祈りで歩む委員会活動に。委員長:二見眞義(浦和教会員)