5/26「貧しき言葉が主の言葉に」 Ⅰコリント2章1-5節③
昨日、パウロの最初のコリント訪問と宣教開始にあたって、衰弱と恐れとおののきがあったことを学びました。だからと言って、コリントにやってきてその働きをしないわけにはいきません。パウロは語ります。「わたしの言葉も、わたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
つまり、人間的な説得しようとする努力や、巧みな話術、人を感動させようとする工夫、それらを用いる力やそのように準備する力はパウロにはまったくなかったのです。パウロはただ、自分が見て、聞いて、今、支えとなっているその福音を何の装飾も余計な言い回しもなく、語ることできなかったのです。
それはパウロ自身にとっては「失敗」「準備不足」と思われ、きっとパウロは自己卑下にも陥ったことでしょう。そのような体験を師や伝道者は何度も重ねざるを得ません。
このような話を思い起こします。ある牧師が病気で休職し、しばし故郷の教会に行きました。そこで彼にはもう一つの祈りがあり、彼の兄弟を誘って、キリストの福音を知ってほしいと願っていたのです。ところが、故郷の教会はちょうど、専任の牧師はなく、ある老引退牧師が宣教にあたっていました。その内容は毎週、毎週、イエス・キリストの十字架と贖いを語るものであり、「こんな話で私の兄はさっぱりわからないだろう、もっと鼓舞され、わかりやすい話をしてほしいものだ」と休職中の牧師は思ったそうです。ところが、約一か月後、その兄は深い感動をもって、強い気持ちをもって、イエス・キリストを信じていく信仰を与えられたのです。休職中の牧師は自分の傲慢を示されたと言っていました。
別の話ですが、ある時、牧師仲間数名で「あの先生の宣教は…」という話になりました。そういう話題は牧師仲間では割と盛り上がるのです。その話をしていた中で、ある牧師がつぶやいたのです。「私は何が良い説教とか、何が悪い説教か、とか、そんな判断はもうやめたのです」と。もちろん、み言葉を語っていない説教というのではなく、みな、真剣にみ言葉を追い求める説教であるのは当然であり、その信頼は前提ですが。でも私どもはハッとしました。
人間の限りある言葉である「宣教」を主の言葉とならしめるのは、聖霊の働きでしかありません。もちろんすべての人が「良い」と感じる説教はないかもしれません。でも聖霊が働き、その言葉が、ある人の心に深く届くこともたくさんあるのです。牧師は落語家ではありません。言葉を真実に主の言葉としてくださるのが聖霊であり、さらに、もう一つは教会の祈りであります。牧師のために、求道している方のために、また教会員のための祈りがなくてはみ言葉は実を結ばないのです。聖霊と宣教と祈りが結ばれることが大事なのです。
パウロもそうでした。力ないと思う言葉でありましたが、そこに聖霊が働き、神の力が働き、まさに「主の言葉」としてコリントに集った人々に響いたのでした。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 逗子第一バプテスト教会。神奈川県逗子市逗子3-3-13にあります。昨年度から杉野牧師が就任しております。杉野牧師は神学生時代、私が牧師としておりました福岡有田教会の祈祷会に参加してくださいました。日曜は遠くの教会で学んでおりましたで、水曜は当教会で共に祈った方です。元々は中学校の教師をしておりましたが、50歳位で辞められて牧師になる思いが与えられて神学校に入学したのでした。もう長い信徒生活もありましたし、ある意味、面白いみはあまりないけど、それ以上に堅実でとても安心な神学生でした。前任の平塚教会でも良い働きをされたと思いますし、多くの苦労もされながら歩み、その経験を今の教会でいかされていると思います。祈りの課題は以下です。①「礼拝~集中と拡散~」②高齢者の信仰と健康に祝福を。③教会組織70周年、感謝。牧師:杉野省治