5/25「恐れとおののき」 Ⅰコリント2章1~5節②

 パウロが最初にコリントにやってきた時のことを振り返っています。「衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安でした」と。「衰弱していた」はガラテヤの信徒の手紙4章13節にあるように、病気であったのです。その後、マケドニア経由でコリントに来たのですが、その後遺症を引きづっていたのです。

 パウロはその書簡の内容から、いくつもの病があったと推定されています。一つは「眼」の病であり、ある時から視力が大変におちてきたのです。また「偏頭痛」がありました。それが襲ってくると、もういても立ってもいられない程でした。パウロが自分に与えられた「肉体の棘」という言葉を用いておりますが、棘に刺されるような頭痛があったのです。今日の箇所にある病ははっきりはしないのですが、各地を旅行するということは、それぞれの地域での風土病や感染症、まさにコロナ感染のようなものだったのでしょう。その病を引きづってコリントにやってきた、その肉体的な病が衰弱を与えておりました。
 「恐れ」と「不安」(青野先生は「おののき」と訳す)。「恐れとおののき」はパウロは他の箇所でも用いておりますし、それは私もまったく同じですし、多くの同労者も同じだと思います。

 牧師がみ言葉を取り次ぐとき、それは、何より、自分の経験や体験を語ることではなく、「み言葉」つまり、神さまの言葉を人々に知らせる、ある意味、「翻訳」することになります。自分が聖書から聞いたこと、そして、大事なこととして語る時、まず、誤りを語ってはならないので、調べます。翻訳をみて、疑問が起こるときもたくさんありますので、その折はギリシャ語原文にさかのぼる必要もあります。それから、この箇所についてのさまざまな解釈を知る必要もあります。この時はいわゆる「註解書」をいくつか読みます。それから、文脈や当時の世界や、そこで語っている時の生活の座はどのようなものだったのか、と考えていきます。
 バルトという神学者は「右手に聖書、左手に新聞をもって語れ」というようなことを言っております。そのみ言葉が、現在の現実の中でどのように語ろうとしているのか、それを求める時は、一つは社会情勢があり、もうひとつは、教会で出会う教会員や求道者している方、それらの言葉や祈り、相談されたこと、そのようなことをつなげながら、次第に大きな塊ができてきます。それを「発酵」させる時間が必要になります。ぶくぶくと発酵が強いものがでてきます(これはまさにスピリット)。
 その発酵過程を1~2晩経て、あとは一気に書き上げるのですが、一気といえども、毎週原稿用紙でいえば10~15枚程度になります。10枚だと語る時間は25分前後、15枚になると40分前後になるので、原稿量で大体語る時間がわかります。
 ゆえに礼拝の前に司会者や奏楽者と打ち合わせするときに、「今日はちょっと長くなるので、説教の終わりは12時少し過ぎになるかなー」等と言います。礼拝の終わりが遅くなるのは、「証し」や「アピール」や「特別プログラム」が入ると長くなりますし、もちろん、それを想定して用意するのですが、どうしても延びる時は延びます。
 そうして、準備するのですが、さいごのさいごまで不安です。できるものなら逃げ出したいと、常に思っております。直前に言い足りぬところ、展開が悪かったことなど、気になることがでてきます。神さまの言葉を伝えるという重さに打ちのめされそうになります。
自分の教会(ちょっと言い方悪いね、私を招聘し信頼し、たててくださっている教会という言い方が正しいね)では、基本的な信頼関係がありますので、まだよいのです。
 ところが、はじめての教会とか、講演会、葬儀などでは、知らない人がほとんど、特に葬儀や講演等では。誰がどのような思想や信仰をもっているのかわからないのです。中には「反キリスト教」のような思いを持っている人がおり、中には他宗教の方もいるでしょうし、中にはキリスト教関係の研究者等もおります。このときはまるで「針のむしろ」に立たされるようですし、何より「言葉が通じるだろうか」とも思います。不安や恐れ、自分の足りなさ、そしてもしかしたらすごく読み間違えをしているのではと不安になるのです。
 でも、あとは主に任せるしかありません。自分の足りない、不十分な働き、薄い言葉、でもそのみ言葉の種に命を与えてくださる神さまの働きを信頼していくほかはないのです。終わったらとりあえずほっとします。比べるのには大変申し訳ないのですが、カラヤンという指揮者の弟子として学んでいた人の言葉なのですが、カラヤンはコンサートが終わり、そして、やっとゆっくり食事をするのだそうです。でもその日のコンサートの話はしたくないような雰囲気だったと言います。全力を尽くしてきて、終わった。それは個人的にはいろいろな思いがあるのでしょうが、コンサートが終わったすぐは、もうそんなことはとりあえず忘れたい、今は話題にしたくない、そうしないとゆっくりできないのですね。その本を読みながら「私も同じ」と思いましたが、もちろんカラヤン大先生とは天と地ほど違うので。
 教会の皆さんによって祈り支えられ、礼拝の務めもできるのです。ただし、教会の礼拝は牧師の講演会でもなく、説教を聞く会ではなく、礼拝に集った人々が、心合わせ、祈り、讃美歌を歌い、互いの顔や心を確かめ喜び合い、み言葉に耳を傾け、そして、精いっぱいの讃美歌をささげることであり、礼拝を礼拝とするのは、教会をつくるひとりひとりの信仰なのです。人が集うこと、準備された祈りや奏楽、宣教、司会、生花、光、椅子、掃除、受付の対応、挨拶、すべてが合わさって、かみあって、礼拝が行われるのです。

 そして、何より教会のメンバーは礼拝にきたお客さんではありません。教会員はみな、礼拝をつくり、礼拝へと人々を招くホストなのです。これは常に言い続けたいことであります。
 はい、10時頃から初めたこの作業も、もう11時半。あとはまた明日。おなかもすいたでしょう。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 平塚バプテスト教会。神奈川県平塚市豊原町4-5にあります。1947年に始まった歴史ある教会です。戦後に南部バプテスト連盟の支援でたてられたコロニアルスタイルの教会です。ここもまだ行ったことがないの。昨年から就任されている平野牧師は割りと若い先生です。「子ども食堂」等の取り組みをされています。祈りの課題は以下です。①礼拝再考:日々新しい礼拝者に。②子ども食堂:地域と共なる教会。③創立70周年:協力伝道に感謝。

2020年05月25日