5/21「義と聖と贖い」 Ⅰコリント1章26-31節⑤
30節の最初の文。直前の「あなた方が選ばれた」の言葉を受けて新共同訳では「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」。
ここを岩波訳(青野訳)は、「その神によってこそ、あなたがたはキリスト・イエスのうちに在る者なのである。そのキリストは、わたしたちにとって、神からの知恵、すなわち」と訳します。
田川健三は「あなた方がキリスト・イエスにあるのは、神のおかげである。キリストは神の側から、我々にとっての知恵となった」。田川の注釈として「つまり、我々にとっての知恵と言っても、肉的な知恵(此の世的な尺度、領域での知恵)ではなく、神の側から与えられる知恵。とし、新共同訳を批判し、「新共同訳は『神の側から知恵となった』を縮めて『神の知恵となり』にした。わからないものは縮めてしまえ?」と厳しく批判しています。
続く「義と聖と贖いとなられた」。「義」とはたとえば「神の義」等、多用される言葉であり、私が若い頃はあまりしっくりとしなかった言葉です。
「義」は神との正しい関係性について言う言葉です。「義」は「ただしい」とも読みます。またこの「義」は人間が決められない言葉。「神が義、つまり、神が良い」ということを人は目指しますが、それを判断するのは神だけです。一方で、神はその愛と赦しにおいて、「あなたは生きよ、おまえはおまえでオッケーだよ」と言ってくださるのも、神の義のゆえです。
つまり、私どもが神のためになしえること以上に、神が私どものためになさってくださったゆえに、キリストを通してはじめてつながれた関係性、それを神の義というのですね。
「聖」は以前にも記しましたが、「聖とすること」です。神がご自分のものとして大事にしてくださることが聖とされること。これも人間は決めることはできません。「これは大変優れているものなので、聖なるものです」と人間は決められないし、決めてはなりません。神にとって「聖なるもの」は黄金の立派な燭台とは限らず、子どもが献げた5つのパンと二匹の干魚を聖としてくださるし、神殿でやもめが献げたレプトン銅貨は金額としてはわずかなものですが、主イエスは「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた」と喜び「聖」としてくださったのです。
「贖い」は、元来は経済用語で「借金や借財を、他の誰かが支払ってくれる」そのことを「贖い」と言いますが、主イエスによって罪が贖われた、人の罪を贖うのは主なる神いしかできない、それを行ってくださったのです。
なお、青野先生は「義」「聖」「贖い」のそれぞれ三つの言葉とつながりは、パウロの独自の表現としてではなく、当時、すでに一つの定型として成立していたと予想しております。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> ふじみキリスト教会。神奈川県平塚市真田4-26-8にあります。現在の牧師である犬塚契先生は、割りと若い頃から知っており、全国小羊会キャンプでは、数年一緒にスタッフをさせていただきました。ある年の小羊会キャンプの時、「おさるさん」の着ぐるみを着て登場したときは、連盟も進歩したなぁと思ったものです。そして、何より、そのぬいぐるみを着たうえでの、軽い動きに、若くてすごいなぁ、と驚嘆したものです(私も着たかったなぁ)。先日、ある印刷物で契先生が写っていたのですが、ずいぶん腹回りも増え、良い言葉では「堂々とした体格」になりまして、時の移ろいを改めて感じました。祈りの課題は以下です。①礼拝者の備えと教会の霊的雰囲気。②地域へのよきインパクトのために。③シャローム子どもの家のはたらき。牧師:犬塚
契、協力牧師:犬塚 修・草島 豊