5/18「破れ提灯」 Ⅰコリント1章26-31節②

 本当は毎日、10行くらいにしたいのですが、通常よりしゃべる機会が少ないせいか、えらい、おしゃべりになっていますね。今日は、雨の土曜です。来週のために書き溜めておこうと思い、そして、雨の音がすてきなBGMになってタイプしています。今日は、町内会長とふたこと、みこと。あとは宅急便の人に話したのと、ある方に電話したけれど、不在でしたので、留守電にしゃべっただけです。あとは、うちの犬二匹といつものように多少の喧嘩をして。と思っていたら、来客があり、少しの時間しゃべりました。
 いつも思い起こすのは「破れちょうちん」という言葉です。「提灯(ちょうちん)」。外側が破れた提灯、でも破れたところから、中の光があふれてきます。そのように。キリスト者も、外側は破れてしょうがなし、でもそこからイエスさまの光を輝かせたらいいんだよ、って。自分が光るのではなく、イエスさまの光を少しでも照らすことができたら、それが一番ですね。
 「提灯」といえば、思い出すことがあるのです。私がまだ幼い頃、私が育った教会に、教会の名前が書いてある「提灯」がいくつかあり、クリスマスイブには、その提灯をもってキャロリングに行くのです。なんせ、イブ礼拝が終わってからなので、幼い頃は連れていってもらえなかったのです。もう行ける、と思った日には、キャロリングは、車で移動するようになりました。なんか、頭の中で、提灯をもって、歌い歩く姿に憧れをもっていたのでしょうね。
 さてと、パウロは「あなたがたが、キリストに触れ、出会い、そして教会に来始めたとき、人間的にみて知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者が多かったわけではないよね」と。その言葉がコリント教会で読まれたとき、みんなの反応はどうだったのでしょう。パウロを嫌がっていた人もいたわけですし、「何をパウロは言うか!私は違う」と反論した人もいたでしょうね。言葉にならずとも、心の中にその声が響いた人もいたことでしょう。
 そして、パウロがこう言っているからには、教会の中には学歴や家柄や能力を誇っていた人がいたことでしょう。「私はこのような人とは育ちが違うの」という人が。コリント教会にはユダヤ教出身者、商売等で裕福な人、ローマ市民権を得ている社会的階層が高いとされる人々、奴隷と呼ばれるような人々。その格差や差別の思いはそう簡単に乗り越えることはできず、社会での常識が教会にも投影されていたのは当然でしょう。具体的には「晩餐式、あるいは礼拝の時の様子として」また先の箇所に出てきます。
 その箇所を待たないでも、同じような内容のことを語っても、ある人の意見は無視されますが、ある人の意見は採用されるとか、何等かの役職につける人とつけない人が、その人自身を見ることではなく、社会的なレッテルで判断されていました。
 私がこの箇所から感じること。そして、私が出会ってきた人たちにはいろんな人がいました。いや、本当に優れた人、威厳を感じる人、考え方がすばらしい人。でも学歴や家柄を知らなくても、肌でそのすごさを感じました。たくさんいらっしゃるのです。後で学歴や職歴や家柄を聞くこともありましたが、それほど大事ではないなぁと思ってきました。逆に東大とか、京大を出たといっても、その方の言葉や所作がよくないと思うこともあったわけです。いわゆる「ふつうのオバちゃん」の言葉や行動に教えられることもいっぱいあります。「頭が良い人」っていうのは偏差値ではなく、「賢い人」なのかなぁ、って思っています。
 パウロは比較するなっていうのに、わざわざ、知恵ある者が恥をかくように、無学な人を選び…と対照的に語りますが、なんだろう、知恵があるから神さまと出会うのではなく、家柄が良いから神さまと出会うのでもないし。神の前に立つときは、すべて人間的な装飾も、レッテルもはがされるし、でも、その時に、人は純粋に輝けるのではないかなぁと思います。
今日はあと一言だけ。破れた中にこそ、光が輝く、それが主イエスの光。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 大和愛宣教伝道所。この伝道所も松本福音村キリスト教会の伝道所です。神奈川県大和市大和東1-4-7 栄光堂ビル3階にあります。祈りの課題は以下です。①思いを一つにする教会になれますように。②信仰告白文をつくりあげられますように。③教会規約をつくりあげられますように。牧師:李 東柱、主事:郭 淑、協力宣教師:権 正勲

2020年05月16日