5/16「力と知恵」 Ⅰコリント1章18-25節④

 キリストは「神の力」「神の知恵」。「力」の行使は、人を助けたものでもあると同時に、今までどれだけの人を苦しめ、痛めてきたことでしょう。「他」よりも強い力を持つことが必要だと考えられてきました。「パワハラ」という言葉が様々に使われます。力をもって、人より優位に立ち、自分の都合に相手を従わせる方法になります。そのために、人は勉強しましょう。良い学校、良い会社に入るためには「力」を持たなければなりません。あるいは「武器」を持つことによって力を保持、あるいは優位に立つことを求めます。「力」を得るときに必要なのは「知恵」になります。つまり、「力」を何のために、何を目指して、どのように使うのか。そこに正しい知恵がなければ空しい力になるのです。自分の持っている力を、人を助け、共に生きるために用いることもできますし、一方、自分の持っている力を自己利益や他者を服従させるために使うことも行われてきました。
 「知恵」があっても、それを遂行する力がなくては実現いたしません。今の世界である人々は飢え、ある人々は多くの食材を捨てています。食料や仕事や教育が等しく供給や分配されていない事実を見ます。しかし、それら課題に取り組む現実的な手段となる「力」は簡単ではありません。いくら「力」があっても、正当に、愛をもって使われないときに、人々を傷つけるものとなるのです。
 「知恵」と「力」がきちんと結び合うことが大事です。コロナウイルスに対してもこのことが問われております。ウイルス拡散防止のために、休業しましょうと政治は力をもった発言をいたします。では、そのことによって生じる様々な危機についてどのような方策や税金を使うのか、その「知恵」が必要なのです。いわゆる「アベノマスク」はそのバランスを欠いた判断であったのです。
 家庭でもそうです。暴力や暴言という力ではなく、愛をもって仕え、育てる心がなければ良き実りはないでしょう。
 「力」と「知恵」が確かな方向性をもって、実現することが大事です。そして、神の力は十字架にかけられた主の姿。それは一切の力を拒否し、力のむごさを示し、人をゆるしていくという、「愛」においてこそ示されたのです。主イエスこそ最後の犠牲であり、暴力の終わりを指し示すものであったのです。主イエスの姿から、そして語り続けたメッセージから人は誠の生き方を学ぶべきであったし、今もそのことを教えています。
 主イエスの歩みを、十字架で処刑される姿を人々は「愚か」だという、「無力」だという。神は報復することを通して正しさ、正義を実現されようとしませんでした。「愚かさ」と「無力さ」が人間の真実の姿であり、それゆえに、人は正しい知恵と正しい力を神に問い求めなければならないのです。そして「正しい」ことは主イエスの歩みにしかありません。
 「知恵」を求めて行き着く先は繰り返す人間の「愚かさ」を知ることであり、「力」を求めて行き着く先は、実は「無力」であることを知ることです。でも、自ら「愚かさ」と「無力さ」に人が気づくときに、人々は何のために与えられている命であるかを知ることができるのです。
 この議論はもっと深めていく必要がありましょうし、これからも考えていくことです。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 松本福音村バプテスト教会。松本市大手5丁目6-3にあります。「福音村」という面白い名前がつけられています。新しい教会というイメージがありますが、2004年からのスタートですね。古い建物を購入し、連合の皆さんの協力を得て、整えていったという話を思い起こします。「松本」には立ち寄ったくらいの印象しかないのですが、「松本城」はよく覚えています。最近、ずいぶんとお城の周辺が整備されてきたようです。いつかゆっくりと行きたい場所でもあります。祈りの課題は以下です。①すべての聖徒が毎日聖書を読んで祈る時間を持つように。②毎週火曜日、路傍伝道を通じて福音が宣べ伝わるように。③回転資金の返済が毎月よくできるように(月10万円)。牧師:黄 基英

2020年05月16日