5/9「人間の求める知恵」 Ⅰコリント1章18-25節
昨日の文章を読み直してみると、誤解を生むようなことがあったなぁと、反省しております。私、日曜の礼拝のあともいろいろ反省すること多々でございます。
一つは、クリスチャンの神さまへの「信頼・信仰」は完全ではありません。100パーセントの信頼は決してないのです。疑うこと、不信が生まれること、よくありますし、それを「罪」や否定すべきことと考えません。これは人間関係(夫婦関係等)でも同様です。「完全ではない」、だから、大事なのは、日々、祈り、み言葉を読み、そして、教会での信仰者の交わりの中で、神さまとの関係性を常に新たにすることが必要です。疑いや不信、それをそのまま放るのではなく、育てること、それが神さまと共に生きる道ですし、人間関係でもそうです。疑い、不信が起こるとき、それはどのような理由でおこったのか、自分の思い違いや勘違いがなかったのか、言葉が分かり合えていたのか、と考え、そこでまた思いを新たにすることが大事ですね。
Ⅰコリント書に戻りまして、「ギリシャ人は知恵を求める」。パウロはユダヤ人であり、同時にローマ市民権を持つ人なので、「ユダヤ人」も「ギリシャ人」も自らのことを第一においての発言だと思います。
ローマ帝国がほぼ地中海沿岸諸国を制し、その中で「ギリシャ人」はその最上層にいた人々でもあります。「哲学」が盛んで、ここでの「知恵」、ソフィストは、「ソフィア」、つまり「叡智、博識」ということです。
ギリシャにおける神への考え方、思弁のひとつをバークレーから紹介するなら、ギリシャ人は神はなにも感ずることができない、と哲学したのです。もし、神が喜びや悲しみ、怒りや嘆きを感じることができるとすれば、だれか人間が、そのとき、神を動かしたことになる。とすれば、その人間は、そのとき、神に影響を与えた。つまり人間は神より偉大な存在となる、と議論を進め、神はいかなる人間も影響を受けない、絶対的なものであり、神は何も感じえないものでなければならない、と考えたようです。
結局は、それは人間の考えに神を帰属させるように思われますが。そのような考え、あるいは、再三述べているように、「神が苦しむ」それは有り得ないものでした。その考え方が進んだ中で、グノーシス主義と呼ばれる人々は、主イエスが十字架で苦しんだとあるが、実は魂はそこから抜け出ていて、肉体は苦しんだかもしれないが、魂はまったく無事であった、という議論を展開していきます。そしてグノーシスの人々は「肉体」と「魂」を分離させ、肉体がいかに悪いことをしても、魂が清浄であり続けたら良いと、考えていくのです。
また、ながながとした説明になりましたが、パウロが伝道をするにあたっては、当時の人間の世界観や思想、政治等と対話をしているということが大事です。「今」という時代、環境、思想を学びつつ、そこで福音が伝えているメッセージと対話しつつ、そこで、福音の持つ力を改めて知ることでしょうし、そのことを伝えていくのです。「宗教」はこの世界そして、今を歩む人間の生きざまと無縁ではありません。いや、この世界の現実、苦しみや悲しみ、嘆きが支配する世界の中でこそ、福音はその輝きを増していくのだと思いますし、私もまた、対話を通して、福音はさらに豊かに、深く覚えられていくと感じております。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 浜松バプテスト教会。静岡県浜松市中区布橋2-1-9にあります。浜松は、国産ピアノやオルガンの生まれた場所であり、今もヤマハやカワイ、その他電子楽器も含めた楽器の会社が集積されている地域です。以前、「ブラタモリ」で浜松を取材しており、天竜川をへて良質の木材が集まった、木材の乾燥等にも最適な気候であった、というようなことが紹介されていました。「浜名湖」も車窓から見たことはありますが、一度も行っていない場所の一つで、いつか訪れたいものです。それゆえ、浜松教会もほとんど知らないのです。浜松教会の祈りの課題を紹介します。①主の証人になろう!(20年度教会主題」②「五つの約束」を守る生活から!③「キリストの福音」があなたから隣人へ!牧師:伊藤勝彦