5/5「十字架を無にしない」 Ⅰコリント1章10-17節⑩
「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬよう」。「むなしい」は口語訳では「無力なものに」とありましたが、本来は「無」になる。100パーセント無駄になるという意味です。むなしくしているのは「言葉の知恵」。これはキリスト教に対比される「世の知恵」ではありません。「十字架」という言葉の持つ「恥」「呪い」「痛みの極み」「極刑」「苦悩」というものを抜かした「救いの実現」を語る伝道者達を批判する言葉なのです。つまりここに「逆説でしか語れないキリストの救い」を語るパウロの思いがすでにあふれております。
つまりは、「麻薬的宗教」への批判です。これはパウロの、キリスト信仰の中心なので、今後も何度もでてきます。
人間が「救い」という時に、「苦しむ神」や「死ぬ神」、「人間に殺される神」など、通常は(順接では)有り得ないのです。「神」なら全知全能で何でもできる、そして、この神さまに頼っておけば、苦しみも痛みも悲しみもない、という宗教がありましょうし、時にキリスト教もそのように伝えられたことがあるのです。ゆえに、クリスチャンになれば、苦しまない、痛まない、いつもハッピー、悩みがあるなどキリスト者にはない、とか、キリスト者は疲れない、など。そのような一時しのぎ、テレビを見て笑って苦悩も吹き飛んだような宗教は真実に人生に伴わないのです。
クリスチャンだって、悩み、病にかかり、苦しみ、呻くのです。そこで「苦しむのは信仰がないからだ」とか「本物のクリスチャンは祈れば大丈夫だ」などと簡単に言えるものではありません。主イエスは苦しみ、叫び、「わが神、わが神、何故私を見捨てるのか」と叫ぶことを通して、人間の苦しみや悲惨に伴うことをしてくださる、苦しみの連帯、悲しみの連帯、共に苦しむことを通して、人と伴い給う、その姿こそ、ヒーローではなく、スーパーマンとしてではない、「共に生きるキリスト」によって「救い」が有り得るし、そのような連帯こそが、真実に世界を変えていくことになるのです。
でも誰かはこう語るでしょう。「でもキリストは復活されたからいいじゃないか、復活するんだよ、だからハレルヤだよ」と。そう、確かに「復活」「よみがえり」は希望として私も待ち望み生きております。でも「苦しみ」「十字架」なしの「よみがえり」のみを語ることが、人間の苦しみの現実を見ない、麻薬的な信仰となるのです。
主イエス・キリストが示した「救い」、それは、苦難から逃げることではなく、苦難を見ようとしないことではなく、「苦難の中での共生」、「共に苦しむ関係性」。そのことが、真実の「救い」、そして「希望」に向かうのです。だからパウロは語るのです。さっさとキリストを十字架から降ろして、お祝いをするのではなく、「キリストは、今もなお、あなたのために、十字架にかけられたままの姿で、あなたと共に生き、あなたと共に死ぬ」、しかし、ここにおいてこそ「救いの道」があるのです。
今、私どもを襲う「コロナ」の中で、私どもは「苦難の中で共に生きるありかた」を学ぶべきなのです。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 豊田バプテスト伝道所。昨日お祈りし各務原教会の伝道所として誕生しました。同じくブラジルの方々が中心でしたが、今、多くのブラジルの方々が帰国し(させられた)ことで、伝道所は休止中です。祈りの課題は①豊田伝道所の再開。②長浜集会の月一回の開催。(現在、活動休止中です)牧師:後藤
寿