5/4「キリスト者の使命」 Ⅰコリント1章10-17節⑨
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり…」。この言葉は大変重い言葉です。ここに現在まで至る宗教批判を見てとれます。宗教では時折、「どれだけの信者を獲得しているのか」、そしてその数が多いことがまるでその「宗教の正当性を保証」するように思われます。またキリスト教においても、「私はこれだけの数のバプテスマを行った」と誇るような方に出会うことがあります。まず、押さえておくのが、宗教は経済行為ではなく、商売でどれだけの数が売れたというようなことが評価の基準にしてはならないのです。
歴史的にみても、宗教が政治と結びつくときに、人数は増えましょうが、同時に宗教性が腐敗したことは多々あります。中世のキリスト教が代表ですが、もちろん、すべての宗教者や信者の信仰が腐敗していたわけでもありません。心からの祈りと献身をしていた方も多いことも指摘しておかなかればなりません。また「国教」なったときは宗教がその精神から離れ、利用されながら、利用しつつ、中心がぶれていくのです。ゆえに私どもは「政教分離」を強く意識いたします。また、バプテスト教会の先達は、英国で大変な差別を受けた歴史を背負うものであるゆえに。
さきほど、バプテスマの人数を誇るという話をしましたが、そこに、牧師や伝道者は努力したことは確かでしょう。しかし、伝道は、一人で行えるものではありません。宣教師や、教会のメンバーの祈りや働き、さらに、その教会の立地条件もあります。駅前の教会と山の中の教会で単純に比較できませんし、地方の教会で、心こめて、教会学校で子どもを育てても、成人すれば都会に出ていくこともあります。それをまるで、牧師や伝道者の一人の手柄と思えばなんという傲慢でしょう。何より、信仰を与えてくださるのは神さまであり、信仰へと至らせるのは、「聖霊(神さまの働きかけ)」がなくては成立しません。
牧師や伝道者は種をまき続けます。その種が発芽するか否かは、牧師・伝道者の手にはないのです。
パウロは「獲得した人数を誇る伝道者」の存在を知りつつ、「伝道」は自己宣伝や教会の勢力拡大を目指せば、誤りを犯してしまいます。パウロは言う「福音を告げ知らせる」ことが使命である。「福音」は人生に意味を与え、神さまから大事に創られ、愛されるすべての命を肯定し、希望と喜びを与えていく力です。その福音は困難な中において、人生を支え、忍耐を教え、隣人と共に生きること、祈りあうこと、共に心合わせ「共に喜び、共に悲しむ」ことへと人生を導きます。その「福音」を告げ知らせること、それを受け入れるか否かは、先ほども申しましたように牧師・伝道者の手にはありませんし、その働きは教会の業なのです。個人の名前ではなく、主なる神さまの働きに協力すること、そこに謙遜に立ち続けることが牧師・伝道者、また信徒の働きなのです。
さて、さきほど「政教分離」の話をしましたが、昨日は「憲法記念日」でした。「憲法」において、思想信教の自由、人間の尊厳等が訴えられ、日本国憲法は第二次世界大戦の教訓を生かした素晴らしい憲法であります。そして、時々、誤解している方がありますが、「憲法」は国民主権に立ち、国民が政府に対して「してよいこと、いけないこと、目指すべきこと」を規定しているものです。「これはしてはいけない、これをすべき」と政府という大変な力を持つものに対して制限を加えておりますし、そうしなければ「政治」が暴走してしまいます。そのことも覚えておきたいものです。
今日はS・Mさんのお誕生日おめでとうございます。
<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 各務原バプテスト教会。岐阜県各務原市前渡東町4-161にあります。「トヨタ自動車」関連の企業で多く働いていたブラジル人の人々を中心として生まれた教会です。ただ、社会の変化の中で、日本で働く外国人の方々の立場は弱く、安定した基盤がもてないことは課題です。祈りの課題は以下です。①多言語教会の礼拝の充実。②多言語での聖書の学び。③地域への伝道と共生。牧師:後藤 寿