5/1「キリストは分けられたのか」 Ⅰコリント1章10-17節⑦

 うん、どうも先に進めないし、余計なことばかり書いているのでご迷惑でしょうが、もっと短くしましょ。説教は短い方が喜ばれることが多いみたいですね??。私が牧師一年生で宮崎県の高鍋町で生活を始めた時、同じ町内の日本キリスト教団の安藤牧師(故人)から「インスタントラーメンのような説教をするな」と言われて、以来、その言葉をいつも大事にしてきました。
 説教(宣教)は、まず聖書を読み、疑問があればそれを調べ、その伝えていることと、現在、伝えるべき内容を考え、いろいろな解釈を学び、教会のメンバーの顔や今の時代性を思いながら、祈りながら1~2日寝かせて(発酵するのです)、それから一気に言葉化するのですが、最後の「言葉化」で3~4時間ほどかかります。その前の段階から考えれば10~15時間はかかるのです(どの牧師もほぼ同じだと思います)。しかし、時間をかけたから必ず御言葉にふさわしい宣教になるかどうかは別ものですが。また、書きすぎた。
 昨日、コリント教会の対立は「律法のとらえ方」と記しました。その内容はこのコリント書に今後も展開されていきますので、折に触れて扱います。そして、パウロは「派閥」が生まれる土壌として「バプテスマ」を誰から授かったのか、が一つの背景としてあることを示します。

 信仰者の入学式といってよい「洗礼・浸礼」である「バプテスマ」を受けようと決意したら、学びの時間をつくります。そして多くの人はどの牧師からバプテスマを受けたのかと覚えております(日にちは忘れる人が多い)。また特に信仰の歩みだしですから、その時に学ぶ内容はとても基礎的な大事な内容です。でも牧師は神さまではありません。教会から働きを委託されて牧師としての働きをするのです。どの牧師からバプテスマを受けた、ということは参考にはなりますが、あまり意味がありません。むしろ対立の中に下手に入ったり、対立を招くようなことはすべきではありません。
 恵み、恩恵であるキリスト信仰を巡って対立が生まれる、それを「キリストは分けられたのか、分裂したのか」とパウロは問います。パウロが十字架にかけられたのではありません。パウロからバプテスマを受けたら、それは本物のバプテスマなのか、等という議論は成り立たないのです。私どもは、十字架にかけられている主イエスによって、赦され、主から与えられた命の道を歩むことになった、その「十字架の影」に立ち続ける他はないのです。

<日本バプテスト連盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 日本バプテスト名古屋キリスト教会。名古屋市千種区今池1-6-25にあります。戦後、早い時期に名古屋のセンター教会を目指して生まれた教会です。教会堂は神戸や旧常盤台とおなじようなコロニアルスタイルの会堂になります。大昔、常盤台教会の聖歌隊の伝道旅行の時に訪れました。「今池」という場所は名古屋の中心地ですよね?名古屋で「台湾ラーメン」を食べるというのが、私の夢の一つですが、いつか実現したいものです。ひつまぶしは食べた、なべ焼きうどんも食べた(麺が堅いの!)、あんかけスパゲティも食べた。あとは「台湾ラーメン」。すみません、緊急事態にこんな話で。祈りの課題は、①「使命と働き」に添った教会形成。②教会建築をビジョンとすることの共有。③礼拝に出席できない方との連帯。牧師:白石久幸、協力牧師:池田巍義、伝道師:西久保健二

2020年04月29日