4/30「争いがうまれる」 Ⅰコリント1章10-17節⑤

 昨日の「クロエ」の話でクロエは裕福な家の夫人、その「家の者」は住み込みの家政婦でしょう。クロエもその家政婦もクリスチャンであったと思われます。では、どこに住んでいたのか。まず、コリントではなかった。パウロがこの手紙を書いているのはエフェソ。クロエはエフェソ近くにいて、何かのことで、コリント教会を訪問し、そこで聞いたこと、感じたこと、つまり良くない話ですが、その報告を家政婦を通してパウロは聞いたのでしょう。すでにキリスト教会のネットワークができていたことは以前も記した通りです。
 パウロが取り上げた第一の問題は教会の中に「争い」があった。それは「パウロ派」「アポロ派」「ケファ(=ペトロ)派」「キリスト派?」に分かれての争い。アポロについては使徒言行録18章等で紹介されていますので、お読みください。ペトロはよくご存じでしょうが、やはり使徒言行録で異邦人にユダヤ教の律法を守ることをさせようとしたり、それでパウロと対立することもあるし、パウロの考えに同調していけば、エルサレム教会の指導者からは叱られるという立場ですね。ペトロは何かにつけて、人間のもろさ、弱さを示してくれて、それはとっても私どもの在り方に近く「ペトロ先生、そういうこともあるよねー」と言いたくなる人です。
 「争い」の要因は「律法」に対する考え方でしょう。旧約聖書の律法の中で育った人はキリストと出会って、キリストにより「律法は廃棄(=成就)」したものであるのに、なお、律法を守るべきだと考え、自分ひとりでやっていればよいのですが、「律法を守れ」と異邦人クリスチャンに命令するのです。もちろん異邦人クリスチャンは「律法」のことはほとんど知りませんから、イエスの弟子であった人に「律法を守らなければ救われない」と言われると、「それは大変だ」ということになるのです。
 クリスチャンになったら「あれをしないといけない」「これはしてはダメだ」といろいろ制約をつけたがる人がいるものです。聖書を読み、祈りをし、礼拝を喜びつくっていく、ことがクリスチャンでありますが、すべてに自由であるのもクリスチャンです。その自由はキリストに従う道における自由です。そして「愛」をもってしか自由を行使してはいけません。あれ、私も「あれをするな」と言っているのかしら。
 「争い」はただ聖書解釈の問題ではなかったと思います。「争う心」は「違い」を「対立」に結び付けます。寛容さを失わせます。立ち返るのは主イエスの言葉と業になりますが、この当時、福音を伝えるのは口伝であり、語る人間の解釈が大きく入っていたことは問題でした。その時代に比較すれば、今、私どもは四つの福音書を通してイエスの言葉を聞くことができるのは、幸いだと思います。一人に一冊聖書があるなんて初期キリスト教会ではあり得ないことですから。すごい宝をいただいているのです。

<日本バプテスト連盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 日本バプテスト連盟引退教役者の方々を覚えて。友納徳治氏(福岡県にある「伊都キリスト教会」をアパートの小さな部屋から起こしていった方です。現在の「常盤台バプテスト教会」の牧師のお父様)。

鍋倉勲氏(品川教会、福岡市の鳥飼教会等で長らく牧師をされていました。神学者としての一面もお持ちです。私が神学生の時、鳥飼教会で1年研修をしました。その時の牧師が鍋倉先生。鳥飼教会というのは、教会の横に川があり、冬になると渡り鳥がたくさんやってきて、パンを投げると鳥が大変上手にキャッチするのが楽しかったです。それで「鳥飼」という名前になったのかしら。鳥飼教会の隣は西南学院の舞鶴幼稚園とさみどり保育園があります)。

2020年04月29日