5/31「ペンテコステ~いのちの言葉」 使徒言行録2章1~13節

本日はペンテコステ礼拝を覚えております。ペンテコステはクリスマスやイースターと並ぶキリスト教三大祭日のひとつとしてキリスト教の中で伝統的に守られてきました。キリスト教会が世界ではじめて生まれた時です。50年前後の初代教会は5旬祭、ペンテコステ礼拝をすでに特別な日として守っていたことがわかるのです。

 ペンテコステはギリシャ語で第50日目を意味します。これは旧約聖書の中では7週の祭りと呼ばれていた祭りに起源を持ちます。 小麦の初穂を主にささげた日から数えて49日、7週が過ぎて穀物の集会を感謝する刈りいれの祭りでした。その後、旧約聖書の歴史の中では。出エジプトの出来事と関連づけけられるようになりました。出エジプトから50日目にイスラエルの民はシナイ山につき、いわゆる十戒を神から授けられたという日になります。その意味ではペンテコステは神の言葉が与えられた日、それが新約において新しく始まったキリスト教会の始まりの日、言葉が与えられてそこに集っていた人々が語りだした、言葉の記念日なのです。
 
 使徒言行録では1章3節以下を見ますと、復活後のイエスが40日にわたってかつての弟子たちにあらわれたこと、そして「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられるからである」、また「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てに至るまでわたしの証人となる」という言葉を残して天にあげられ、イエスは人の目には見えなくなったという記述がありますそしてそのあと「彼らは皆、夫人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」
 
 そして、そのように祈っていた民に聖霊(神の力)がくだるのです。その祈りの内容は聖霊のバプテスマ、自分達の思いや考えをこえて授けられる神の働きを待望する祈りであったと共に、彼らは主イエスの語られた言葉や業、そして十字架上で殺されてしまった、しかしその主を神が復活の命を与えたこと、それらの一連のことを、ひとつひとつ整理し、それぞれが思っていたこと、自分にとってイエス・キリストとはこのような存在であった、主はあのように、人々に関わった方、このような宣教をした方である、そのようなことを話し合いもしたことでしょう。そのような営みを通して、自分の言葉となっていくのです。

 主イエス・キリストがもたらせたもの、それに対して私たちはどのように歩んでいったらよいのか、という、まさに自分たちの信じ歩んでいくべきものの指針となる信仰告白が生まれるまでの祈りの期間であったのだと思います。言い方を変えれば、今の教会学校をしていたのです。

 ヨハネ福音書でイエスの告別説教でこういう言葉があります。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起させてくださる。」とあるように、まさに聖霊がくだること、聖霊のバプテスマというのは、イエスの出来事が、自分の中で受け入れられ、イエスのもたらせた福音を自分の言葉で語りだしてゆくということであり、「信仰の言葉の記念日」なのです。そこに必ず聖霊の働きがあるし、見えない神の姿を、今直接には聞けない主イエスの言葉を、人が受け止めるとしたら、それはまさしく聖霊の働きによるものなのです。

 弟子たちはその朝も祈り礼拝をしていました。「一同が一つになって集まっているとき」にシナイ山で起こったことよりはるかに重大な事件が起こったのです。
 人々を神の民とする契約の更新、神ご自身に属する民を新たに召し出す出来事です。シナイ山で神の律法、十戒が与えられたとき「雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いた」「煙は炉の炎のように立ち上り、山全体が激しく震えた」と出エジプト記19章に記されていますが、新約において、新しい約束が与えられるとき「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」のです。

 それが祈りの中にあった者たちを揺さぶり、彼らの中に新しい命が生きだし、新しい使命に生きるものとされた、それが神の息吹であり、神の働きでありました。
 ここに教会が始まっていくのですが、それは何と響きに満ちていたことでしょう。そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
 主の霊が与えられ、彼らは「話し出す」のです。それは「神の偉大な業」であります。 この使徒言行録2章では、炎のような舌、とありますが、舌は「ことば」と同じ意味です。ですから人々の口に火があった、炎を吹いたということではなく、いきいきとした有様が伝えられているのです。そして火は神の臨在の印ですから、何より神の業を、あかしを語りだしたといえるでしょう。それも、世界中のさまざまな言葉でそのあかしが、宣教がなされたのです。

 新しい約束、新しい言葉、それは言語と民族の境界を超え、全地の民に向かって喜びの訪れをのべ伝えるものでした。この日を境に以後、将来にわたって、かつては弱く、自分の命を守るのに精一杯だった弟子たち、けれども主を裏切り、逃げていった弟子たちが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と聞く人の心にしみわたる言葉で語りだしたのでした。
 神のことば、救いの言葉、命のことば、イエスの言葉を語りだす群れ、全世界へと伝道していく群れ、神の言葉をあずかる教会がここに誕生したのでした。

 2節では「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。風は聖霊の働きをいいかえたものです。また神の息吹、神の息とも呼ばれます。その風は創世記に「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった」とあるように、人が神の息、神の息吹によってその日新しく生まれたもの、新しい命に生きるものとなる、まさしく聖霊のバプテスマです。
聖霊は私たちを動かす風です。聖霊はわたしたちに言葉を与え、他者と語り合ってゆく力を与えてくださいます。

 思いを分かち合い、心通わせるための言葉が、人を殺す武器となることが起こっています。言葉が通い合わない時代です。言葉が相手を喜ばせ、励ますものではなく、相手を脅したり、相手をバカにしたり、差別し、憎しみのことばがあまりにもこの世界に満ちており、相手が何を言おうとしているのか真剣に聞かない、共感されるかと思えば、否定され、同じ思いにたつことができない、その戸惑いを自分自身も常に感じる者です。でも、それが良い状況でないのは確かです。
 ゆえに思いを相互に開いた心で受け止め合う言葉がほしい、イエスの語った言葉を、和解の言葉を、いのちを受け、いのちを与えることばを告げる教会に導かれることをペンテコステに願うのです。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 連盟引退教役者の方々を覚えて。野村義雄氏(神奈川県在住)、浜崎英一氏(大阪府在住)

2020年05月31日