5/19「人生というもの」 Ⅰコリント1章26-31節③

 創世記の創造物語で人間が神との約束を忘れ、神のようになる知恵を求めた結果、神から逃げる者となり、そして、隠れ、自分を覆う服(葉っぱであったが)を着ました。そして責任転嫁する姿は自分を何かで隠さなくては不安を抱くようになりました。しかし、神の前に何ら人間的な保証を必要としません。素のまま、それは醜い姿であるかもしれませんが、そのあなたを主は選び、導き、愛し、祝福しようとしているのです。
 バークレーは次のように語ります。「ブルトマン(20世紀を代表する新約聖書神学者、ドイツ)も言っているように、最も根源的な罪は自己主張、あるいは人に認められたいという欲望である。われわれは何事もなしえず、ただ神のみがすべてのことをなしたもう、という認識に立ったとき、はじめてほんとうの宗教が生まれるのだ。自分の弱さ、無知、無能、無力を知っている人間が、結局は強くて賢い人間であるというのは、生のおどろくべき真実である。自分ひとりで生きて行かれると考える人が、結局は、人生に失敗してしまうのは、経験上の事実である。」と。
 うん、ちょっと考えてしまうね。根源的な罪が「自己主張、人に認められたいという欲望」?私は多分そう言わないと思う。もう少し言葉を足さないと、「自己」が失われてしまうのではないでしょうか。むしろ、「自己絶対化」という、自分と異なる意見や批判に対して聞く耳を持たず、それらを拒絶することによって、自己を絶対化してしまう、と私は言うだろうし、多分そのような意味でブルトマンは語っているのだと思います。もう一つは「人生に失敗」という言葉。人に奪われたり、失敗させられる人生はあるかもしれないし、そのようなことを起こさない世界を創り出すことを求められるが、自らの人生を失敗とすることは有り得るのか、では「成功した人生」とは何なのか、と対話しつつ考えます。「自分の人生が失敗だった」という人がいるなら、ぜひ教会に来てほしいとも思います。いっしょに考えてみたいのです。
 付け足しですが、昨日「優れた人」「威厳を感じる人」等との出会いがあったことをお話しました。その時、もうひとつ、大事なことを語り忘れていました。それは、どんな人にも、痛みや悲しみ、過ちの過去があるということです。別の言葉で言えば、悲しみや痛みが、その人の人生を深くした、と言えるかもしれません。でも誰も「痛み」「悲しみ」をいただきたいと思いません。では、何故?と思います。命、祝福、苦難ということ。このことについてはまだ自分は確かに語りえないのです。あるいは、簡単に語ってはならないようにも思います。命の深さ。何と不思議な、何と稀有な、何と重い命。

<日本バプテスト連盟加盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 松本蟻ケ崎キリスト教会。松本市蟻ケ崎6-4-3にあります。この教会のことはあまり知りませんが、かつてこの教会の牧師をしていたJさんが「松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)」がすごい(いろんなニュアンスを含む)と言っておられたのを記憶しておりました。ウィキで調べると、こうあります。「太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。」そして三ケ所に大変大きな地下壕がつくられていたのです。その一部は公開されています。私も一度、行ったことがあります。あの時代、すでに敗戦は決定的であったのにも関わらず、日本は何を守ろうとし、何を捨てようとしたのか。この地で働かせられた多くの人々の怒りと悲しみ、その声を聞いた、いや、迫ってくる、でもそこから逃げたような思いが今もいたします。

祈りの課題は以下です。①新会堂が今後の宣教に役立つように。②主の言葉に聴く礼拝が祝されるように。③大胆に神賛美ができるよう指導者を。牧師:川井高雄

2020年05月16日